新宿ゴールデン街

新宿・歌舞伎町の中にありながらも、戦後の雰囲気を残しつつ
新しい街として、今尚活気を魅せている、ゴールデン街。
その入口に位置し、芝居屋・映画屋・マスコミ・学生・サラリーマンと、 雑多な人種が入り乱れて、
夜毎酒酌み交わしている店・・・「クラクラ」 ご紹介します。
経営者・知る人ぞ知る(知らない人は誰も知らない・・)椿組の外波山文明

戦後の歴史と風俗に育まれた、新宿ゴールデン街の飲み屋文化

都の指導のもと、コロナ感染対策はキチンと対応して
営業しています。ご安心してご来店下さい。

戦後のどさくさに紛れ建てられたゴールデン街。1960〜70年代にかけ、騒乱の時代へ。そんな中「クラクラ日記」で知られる坂口安吾夫人のバーの名前を拝借し、新宿ゴールデン街「クラクラ」が生まれました。

ビール/ウイスキー/ハイボール/焼酎/バーボン/梅酒他。
おつまみ・・焼そば/焼うどん/卵焼き/目玉焼き/茹でウインナー/野菜炒め・・諸々有り

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・・・・元々この地区は戦後のどさくさに紛れ、昭和23~5年頃建てられたらしい。??
新宿西口和田マーケットの屋台の人々、2丁目の赤線娼婦街の屋台の人々などが中心となり、街を起こしたらしい・・・。
木造3階建ての珍しい建物・長家である。一見2階建てではあるが、実は3階建て。
(これには訳があるのだ・・つまり昔は青線地帯だつたのだ。下で飲ませ、商談成立すれば、上に上がり、×××いたすのだ。非合法の売春施設だっのである。五木寛之の「青春の門」にそのくだりの記載有り・・・一読を!!)
と、経営者の住居でもあったのだ。今でも住んでいる人が居ますぞ。

1960年代はその名残りと、キャッチバー・オカマバー・そのお客目当てのラーメン屋などがひしめき合っていた。
その数300軒とも400軒とも・・・
が、1960年代の終わりから、70年代にかけ、世間が騒がしくなり、騒乱の時代へと突入していった。

新宿文化の花、まさに華やかかリし時代となったのである。
僕が上京した68年、まさに新宿騒乱前夜・・・
・・・・・・深夜映画館の健さんの背中に掛け声が乱れ飛んでいた頃である。

そんな60年代後半、映画屋、芝居屋、物書き(作家)、フーテン、様々な人間が行き交っていた街で、名を馳せていたのが「前田」「薔薇館」(現・唯居庵)「ナナ」「プーさん」「さつき」「とのやま」 「奈々津」区役所通りの「小茶」餃子の「大陸」・・・・
そして70年代に入り「クラクラ」「桂」「花の木」「ガルガンチャ」「石の花」「しの」「どじ」「だんさん」・・・など、数多の店が開店していった。 (年代は適当で~す。もっと早くからやっていた店もあつたかも・・)
ゴールデン街で飲んで、小茶に流れ、歌舞伎町のおみっちゃんの「ゴールデンゲート」で朝を迎えるというのが、72、3年の頃の常識だった。
当然、右翼・左翼入り乱れての喧嘩なんて日常茶飯事だつた。
僕が68年上京して入った劇団「演劇集団・変身」の同期だつた新裕子が経営していた「クラクラ」 を僕が引き継いだのが1979年10月の事だった。

2002年から2003年にわたり約2年間、店でバイトしていた俵万智さん。
ひょんな縁から、クラクラのカウンターに入って料理、お酒作ってました。月2~3日ほど・・・出逢えた方は運が良かった・・・キープボトルに短歌書いて貰った人も・・・・・
今は一児のママさんです。

あのたこちゃんがクラクラ開店準備のお手伝いさんだった。 クラクラの開店の日から、亡くなる1985年7月24日まで、欠かす事無くクラクラのカウンターで飲み、 酔いつぶれては、奥のボックスで電話帳枕に寝ていたたこちゃんの事は、 新たにワンコーナー 設け、記録させて頂きます。今暫くお待ち下さい。

私が芝居をやっている関係から芝居屋/演劇人が多く呑んでいたが、 作家の中上健次・立松和平さんなんかと知り合い、戯曲を 書いて貰ったりと素敵な出合いが繰り広げられた・・・・
その芝居の作品紹介などは、はみだし劇場/椿組のコーナーを観て下さい。

店内、やはり壁・天井にはポスターが・・ほとんど外波山文明が主宰する「はみだし劇場」 と「椿組」のポスター=じつはこのポスター、総て黒田征太郎さんのイラストの作品。 黒田征太郎さんには1974年から40年余りにわたり、「はみだし劇場」と「椿組」の宣伝美術を担当して頂いているのだ。

新宿ゴールデン街
クラクラ

  • 03-3209-3660
  • (日・祭も営業)
  • 営業時間:19:00~24:00
  • 〒160-0021 新宿区歌舞伎町1-1-9