「私と野外劇・記事掲載されてます。

演劇ミニコミ紙「artissue」

「私と野外劇」外波山文明、原稿書きました。

「私と野外劇。その歴史。」

椿組主宰 外波山文明

野外劇の椿組と云われて久しい・・・・

別に、野外劇専門劇団ではなく、劇場公演もやっているが、やはり毎年夏恒例の花園神社野外劇を続けて33年。風物詩となって親しまれている。

私と野外劇を紐解くともう50年以上の歴史が刻まれている。

1967年上京し入った劇団が「演劇集団変身」という代々木にアトリエを構えたアングラ小劇団だ。役者志望で入団したもののもっぱら裏方専門の下積み生活。そんな時、声をかけてくれたのが牧武志という演出家。「赤い花」という集団を率いて新宿体育館で一日だけの体育館芝居をしていてその2回目公演に誘われた。

1969年「ボス、ミス、ネス、マス」体育館での一日芝居を終え、そのままの勢いで吉祥寺井の頭公演の野外ステージで公演を行う。これが私と野外劇の最初の出会いだ。続いて石神井公演の野外ステージ・・・・この様な公の施設を借りるにはそれなりの苦労があった。

当日は一般の人に「見ては行けません!」と遮断幕など張る事を禁じられ、誰でも見られる事が条件。なので前もってお客さんには「協力券」というチケットを売り、収入に当てたりしていた。

続いて1971年その「赤い花」として東北放浪の旅に行こうと深沢七郎・脚本の「木曽節お六」を仕込み、上野忍の池の野外ステージ、石神井公園野外ステージでイントレ建てて野外劇を行う。そして2tの幌付きトラックで東北大船渡へ。細浦という小さな港町に一軒家を借り6人で共同生活をしながら、路上に出て街頭劇「混乱出血鬼」(内田栄一・脚本)を演ずる。一日数回、投げ銭を貰ってのゲリラ公演だ。

当時アングラ全盛の時代。状況劇場が花園神社に紅テントを張り、寺山修二が前衛劇・実験劇を行い、鈴木忠志が早稲田の喫茶店で小劇場を作り衝撃的な問題作を発表し話題となっていた時代だ。

我々も気取った劇場にお客を呼ぶのではなく、お客の居る場所に俺たちが出かけて行けばいいじゃないか!又、俺たちが演ずる場所がそこが劇場なんだ!青空の下で演ずれば照明も道具も要らない、俺たちの身体そのものが劇場なんだ!と無謀に叫んでいた。

若かったなーーーー。

でも当時の様々ある演劇シーンの中で、演劇のかたちとして内田栄一さんの唱える「波打ち際演劇」は衝撃的でもあった。「変身」で一緒してから10年余共に走った仲間であった。

その「赤い花」も旅先で演出家と喧嘩別れとなり1971年5月釜石の公園で仲間4人で野宿しながら決めたのが「はみだし劇場」

はみ出されてしまった気分でもあったが、いや違う、自らはみだして来た劇場なんだと決意した24の春だった。

街頭劇。10分前後の芝居を数本用意して変わる代わる上演。警察から追われれば民家の軒先に逃れ、駅前の広場から駅員に追われれば路上に逃れ・・・何処迄が海で何処迄が陸なのか?まさに波打ち際を行ったり来たりの際どい演劇の挑戦だった。

結構、投げ銭が集まり、一日数回演ずれば4人食べていくのには充分だった。水とトイレを求めて公園、駅付近に駐車をしプロパンガス搭載して料理し、銭湯、温泉に入りながら、ヤクザにも追われたり奢ってもらったりしながらの放浪旅。北に流れ下北半島・大間崎から恐山までも旅し約2ヶ月。青春の放浪旅はその後、NHKの「さすらい」(佐々木昭一郎監督)で記録されたり、日活ロマンポルノ「濡れた欲情・特だし21人」(柛代辰巳監督)として蘇った。

その「はみだし劇場」は1971年の秋、日本海添いに再び放浪の旅に出る。秋田青森から北海道網走。雪の舞う中の街頭劇も忘れられない思い出だ。と共に見た人にどんな衝撃的な印象を焼き付けて来たのだろう!とふと思う。

 

1972年には西武園宅地造成地での野外劇「ことぶき少女写真館」上演。

竹馬で登場したり、地中の穴から登場したりと常に劇場では出来ぬ仕掛けや自然を借景とした試みは、役者の演技をこじんまりとした小さなものから、スケールの大きい、自然に負けないだけの声、身体表現、肝っ玉の座った精神を育んでくれた。

1973年福島湯本に一軒家を借りて12人で泊まり込み「外波山文明城24×24」

24日間、ひたすら一日中芝居漬けの日々。近くの田圃のあぜ道や池、山で野外劇。我々の移動に合わせ、観客も移動して歩く。まさに移動劇場。天気のかわりもあり、同じ芝居は絶対2度とない、日々発見、新鮮な経験は役者以上に観客に衝撃を与えた事だろう!!

お客として地元の高校生が日に日に増えてきた時、演劇が事件となった時でもあった。演劇を通じ人さらいをする・・・・かの昔、子供の頃サーカスを観に行き人さらいに合う夢をみたものだ。人に影響を与えるとはそういう事だと思う。

 

1974年、伝説の多摩川河原(登戸)の野外劇「唄入り乱極道」黒田征太郎さんとの出会いもあり、始めてポスターのイラストを描いて貰った記念的公演。芝居も衝撃的だった。

多摩川の河川が氾濫した年でも有り、当時の建設省から許可の貰えるはずも無く、見張りの管理人が帰った5時からイントレ建てたり準備して、近くの茶店とタイアップして電気を借りる。簡単な客席を作り芝居の始まりは生演奏。それを合図に東京都から松明を持ち、20人の役者が歩いて川を渡り登場したり、中州で火を燃やしたり、川にガソリン流し火をつけたり、ジープ走らせたり・・・まさにやりたい放題。当時だから許された無謀な試みも懐かしい思い出だ。これもマンネリ化した演劇界に常に新しい風を吹き込みたい!若さ故の挑戦だったと自負している。

 

1975年.その放浪街頭芝居の極めつけが「シルクロード祭り旅」だ。

5人(途中で一人病気で帰国)でドイツに渡り、フォルクスワーゲンのミニバスを買い取り、生活道具一式積み込み、ヨーロッパを渡り、ギリシャ、トルコ、シリア、イラン、トルコ、アフガニスタン、パキスタン、インド、最後ネパール・カトマンズで旅を終え帰国。5ヶ月間、まさにさすらいの放浪旅。

化粧をして走ったり、水を求め訪ねた地図にも載っていない部落で泊めてもらい一宿一飯のお返しと、踊りに殺陣、唄ったりの芝居を観て貰う。国境の管理事務所で芝居演じたり、結婚式参加や兎に角、行き当たりバッたりではあるが出会いを求めてのさすらい旅。国際事情が悪化した今では絶対出来ない、貴重な体験、思い出だ。

その芝居に立ち会った人々にはどんな思いで眺めていたか・・・それを想像するのも楽しい。そうして人は出会い、繋がりを創っていくものだ。芝居の持つ力を信じている。

 

そして野外劇を語るとき、忘れられない出会いは芥川賞作家・中上健次だ。

雑誌の対談で合い意気投合し、芝居の本を描かないか?との申し出に快く受けてくれ書き上げたのが「かなかぬち」(初演時タイトルは「ちちのみの父はいまさず」)。1979年浅草稲村劇場閉館記念に上演し、その後山形月山の注連寺境内でまさに芝居の世界そのままに、境内と裏山を借景として演ずる。(1983年)松明、燃え上がる男の背中・・・観客も簡単なひな壇に座布団持参で馳せ参じ、祭りの村芝居を楽しむがごとくに心から笑い拍手し、感動していた。

原点を見た思いがある。人が演ずる。喜ぶ。叫ぶ。涙する。悲しむ。怒る。感情そのままに自然の中で演じていると些細な事が全て吹っ飛んでいく。芝居がもうひとつ大きな宇宙を作り出す瞬間だ。その後東京東北沢の森で演ずる。

 

その間「はみだし劇場」は八幡山の空き地にテントを建て、5本上演。東北八都市旅公演を敢行。1984年中野の国鉄土地を借りて野外劇「松浦党志佐三郎の反乱」

1985年.立松和平の戯曲を得て初の花園神社で野外劇を上演。「南部義民伝・またきち万吉の反乱」念願の演劇の聖地・花園神社境内。野外劇手掛けたり興味の無い人達にはなんのことやら??と思うかもしれないが、「土の舞台」「祭り的要素を追求」し「毒のある芝居」を追い求めている我々としてはまさに聖地。

たしかに野外劇はお金がかかる。何も無い所に劇場から建てるんだ。照明も音響も楽屋も全て持ち込み建てなければならないのだ。尋常なエネルギーではない。相当な覚悟が必要だ。でも「自分たちの遊び場は自分たちで造るんだ」精神は、はまるとこんな面白いものはない。物事が的中した時の感慨と感動は何事にも変えられない楽しみだ。それが野外劇の魅力だ。束縛のない分どう自分たちをコントロールして仕込み、本番に臨むか。

立松和平とはその後3本書いて貰い、宇都宮大谷石の石を切り出した洞窟でも二度上演した。泊まり込み合宿での芝居作りは我々の得意とする処である。

 

そして、野外劇の極みは中上健次の故郷で「かなかぬち」の舞台でもある熊野本宮大社跡地・大斎原での野外公演。(1986年)仕込みから3日間降り続けた雨が本番にはぴたりと止み、まさに演劇の神様が降臨したかのような舞台であった。

材木を運ぶ野猿という技術を使い主人公を宙づりしたり、奥行き100Mの舞台を駆け抜けたり・・・火の芝居とばかり本物の火をふんだんに使い、まさに集大成ともいえる上演を行い伝説を創った。

この伝説は2013年、再びの伝説と進化していく。私の故郷・木曽の桃介橋河川公演の野外劇だ。「かなかぬち」を花園神社で公演後、木曽に乗り込む。

石田えりを客演に迎え、全くの野外劇として青天井そのままに上演。3日間で2000人余の観客で埋まり、森、川、大正時代の桃介橋を背景に雄大なスペクタクルロマン劇を再現した。これぞ野外劇・・・・自然そまままの舞台に火が燃え盛る。都会では出会えぬ瞬間だ。

 

「はみだし劇場」は1998年「椿組」と名を変えはしたものの、花園神社テント・野外劇

は続けている。天気に左右されるリスクを解消する為に、テントを建て客席に雨は影響しないが、舞台の一部は雨に濡れるのも覚悟。土の舞台、縦に走れる奥行きのある舞台、ラストシーンの境内の自然、新宿の街並みを借景としその騒音までも取り込んでの仕掛けは野外劇ならでは。終わって役者スタッフと一緒になっての打ち上げも魅力だ。

でも最近は、テント設営に関し、消防など官庁の規制が厳しくなってきていて昔程の無茶が出来ない。近隣の騒音問題も大切。建て込みに関する人件費、備品などのレンタル料の値上げも劇団の財布事情に重しとなってきている。が、一度やったら辞められない。劇場にはないこの空間を求め、まだまだテント・野外劇は続けて行く覚悟だ。

 

 

 

 

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