「30周年記念映像」

「紀伊国屋演劇賞」 - 特別賞舞台監督賞

紀伊国屋演劇賞50年記念の特別賞舞台監督賞を椿組の花園神社野外劇のスタッフ一同が受賞しました。 「椿組「贋作幕末太陽傳」にいたるまでの30年にわたる花園神社公演に携わる舞台監督グループ。長年にわたる舞台監督としての成果に対して。」 これは2015年に花園野外劇が30周年を迎えた公演と、その永きに渡り持続して来たスタッフ・キャスト・劇団に対するご褒美とありがたくお受け致しました。
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第3回花園賞

花園神社さんより、2005年6月頂きました!!
有難うございました。

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ご挨拶 /椿組座長 外波山文明

本日は栄えある花園賞を頂き誠に有り難うございます。第三回目という事ですが、一回目の唐十郎さんと同じ賞を頂いたという名誉を大変嬉しく思います。
と言いますのは、私が東京へ出て芝居の世界に入りましたのが1967年でして、その年花園神社の境内で上演されておりました「状況劇場」の赤テントの芝居を見た時の印象は強烈に残っており、その後の私の演劇人生に多いに影響をうけたものでございます。  その後縁ありましてこの花園神社の境内をお借りして芝居するようになって20年が経ちました。  その唐十郎さんの発案したテント芝居を形を変え今僕たちが受け継いでいる次第です。今や私達・椿組の夏の花園神社野外劇も、演劇界の名物というか、夏の風物詩として定着し愛されおります。これも一重にその境内をお貸し続けて下さる片山宮司さんの広い見識と愛情、ご理解の賜物と深く感謝いたす次第です。本当に有り難うございます。
 私ももう58才に成りました。信州木曽の山奥から上京して38年。その38年間総て新宿で暮らして参りました。青梅街道の成子坂にて5年間、それから大久保、百人町、富久町と移り今の新宿7丁目に落ち着くまで、新宿ゴールデン街から半径歩いて15分以内の所から出ていない根っからの新宿暮らしです。
 そこを拠点にアングラ精神一筋、いろんな場所・状況で芝居をして参りました。 東北・北海道への街頭芝居の旅、トラックで寝泊まりしながらの放浪の旅でした。雪の網走で芝居やった事もありましたし、福島湯本での合宿芝居では、それを見た秋吉久美子がそのまま一緒に家出して来て、芝居を手伝っていた事もあります。
 多摩川の河原での野外劇や茗荷谷の林泉寺というお寺での野外劇などもありました。ちなみにこの寺の住職は人間座という劇団の主宰者でして、連合赤軍がしばしば会議を開いていた事が有り、私も例のローラー作戦の時、引っかかり逮捕された事があります。3日間の留置所暮らしも経験しました。表向きは駐車違反を放っておいた事でしたが明らかに別件逮捕でした。 5人でドイツへ行きワーゲンの車を買って、それに寝泊まりしながら、アラブ・アジアのシルクロードを五ヶ月間、芝居しながら旅して来た事もあります。
 そんな中、芝居では飯は食えず、26年前神社の隣りのゴールデン街にクラクラという店をもちました。クラクラという名前は作家・坂口安吾さんの奥さんの「クラクラ日記」からとってます。その店を持ってから人との交流も一段と増えて行きました。
 作家中上健次さんとも仲良くなり芝居の台本を書いて頂いたのもいい思い出です。13年前亡くなりましたが、結局中上さんが書いた芝居の戯曲は生涯でその一本のみとなってしまいました。その芝居をもって森敦さんが月山の小説を書く為に籠った、山形の注蓮寺でも公演しました。当然野外劇です。又熊野の本宮大社の大斎原や横浜本牧でもやりました。
そんな各地の神社仏閣などでの公演で思うのは、その土地・地場の持つエネルギーを感じて、普段の自分の実力以上の力が沸き上がって来るのを感じるという事です。そうした力みたいなものがその土地にはある。花園神社さんもそうなんです。連綿と繋がる土地の歴史、人々の魂みたいなものがその地に宿っているんだなーと改めて感じます。
 又、人との関わりでは、たこ八郎ことたこちゃんとは亡くなるまで15年近く寝食共にした仲間です。ほとんど我が家で寝てました。海での最後の時も一緒に海水浴に行っていて、海から引き上げもしました。そんな縁で由利徹さんの舞台にも出演させて頂き、亡くなった時はその最後を看取らせていただきました。穏やかな寝顔でした。
 これ又亡くなられた小説家の田中小実昌さんともよく共にジンを飲み、一緒に一ヶ月間ブラジル旅行にも行きました。漫画家の滝田ゆうさんも明け方まで飲み、私の大久保のアパートに泊まった事も度々ありました。ある時には奥さんが着替え届けに来て、そのままNHKの番組に出演しに行った事もありました。そうした、人と人とを繋ぐのが酒であり、酒場でもあり文化が生まれるのだと思います。新宿文化は酒場からと申しますが、そうした交差点としての役割を果たせたらとの思いで、飲み屋を続けております。
あのサラダ記念日で有名な歌人の俵万智さんもクラクラで1年半アルバイトしていました。別にお金に困っていた訳ではなく人間観察だったと思います。バイト代より帰りのタクシー代の方が高かったと常々云ってましたから。出産した時に父親探しがあり、私のところにワイドショーが3社も取材にきました。よく有りますよね、先行取材した画像流しながらこれが犯人でした・・というやつ。笑いましたけど・・。
私の芝居のポスターを32年間書き続けて下さっている黒田征太郎さんとも新宿ゴールデン街の飲み屋のカウンターからの出会いです。私と岡林信康さんと喧嘩になりかかった時に止めに入ってくれたのが黒田さんでした。それから「芝居のポスターを書いてくれませんか?」と頼んだところ「よし、トバが芝居続ける限り書いてやる」との約束が今も続き今だかってお金を払った事が一度も有りません。  ま、都合のいい男の約束だと利用させて頂いていますが、黒田さんにとっても椿組のポスター作りは自分自身の歴史作りとなっているのだと思います。
 そんな面白さが芝居をやめられない理由でもあります。
 立松和平さんにも3本芝居書いて頂き花園神社で上演しました。ギャラは出世払いだ・・との約束でしたがまだ出世してませんので、そのままです。恥ずかしい限りなんですが。その立松さんも書いていますが、芝居とは無頼の徒が集まって作った花のようなものだ。と。
 そんな我々無頼の輩に今回、栄えある花園賞があたえられました。
芝居作りは一人では出来ません。今日又一緒にここに呼んで頂いている仲間達、スタッフの皆さんの支えがあつてこその劇団です。椿組です。これからの私達の使命は、この花園賞に恥じない、いい芝居、楽しい芝居、面白い芝居を作り続けて行く事だと思っています。変に大人風の物わかりの良い小賢しい知恵で芝居するのでは無く、子供心というか童心の好奇心、アングラ精神・挑戦精神を忘れずに荒ぶる芝居作りを心がけて参りたいと思っております。
 それからもう一言、こんな場所で恥ずかしい限りなんですが、そんな子供の様な我々を陰から支えてくれている私の家族、ここに居ります女房にこの場を借りて「有り難う」と一言付け加えさせて下さい。これからも宜しくお願いします。
 最後に、その立松和平さんの「世紀末通りの人々」というエッセイーから花園神社の事を書いた所を朗読して話の〆にしたいと思います。 (立松和平さんも私と同じ、昭和22年生まれ、やはり物作りの原点は同じであり 原風景も同じ所を眺めているような気がします。)
 本日は有り難うございました。